散文🦋

上手く生きれなくて、手が痺れるほど泣きわめいたのは久しぶりだった。ギリギリのところで保っていた何かがついに溢れたのとはちょっと違う。ギリギリだったけど、上手く生きれると思っていたし、ギリギリなりに大丈夫だったんだよ。強く地面が揺れたり、本当は要らないけど、体積のある重いものをドボンと私のコップに投げ入れられたように、全部が溢れて行った。

大好きなあの子も、憧れているあの人も、時々こうやって泣いている日があるのかな。タイムリーに流れ込んでくる彼ら彼女らが幸せそうにしているところすら、追いつけなくて悔しかった。
君にも、辛い時はある?
今は幸せでいっぱいでも、試練を体験した?
絶対に答えは想像がつくのに考えてしまう。

誰だって、そういう時はある。私より長く生きている人も、私よりほんの少しだけあとに生まれた子も、程度は違えど、あると。それは人生における過ちではなくて、自然で、素晴らしい感情や体験のひとつであることを頭では理解しているのに、悲しい出来事はゼロにして上手く綺麗に生きようとしすぎているのが私だ。
そもそもこの体験を失敗と思っている。ポジティブになれなくて当たり前でもある。こんな時にポジティブになろうと綺麗事に持っていくところも変だと感じる。
悲しくても、ネガティブでも、大丈夫だということを証明して欲しい、私が証明したいところだ。
証明するとしたら、いまこんな風に考え事にふけって過去のことでウジウジしている間も、私の体には、ちがめぐり、生きていること。生きてるから、大丈夫なの。どんなに悲しくても、辛くても、ネガティブでもね。
生きることをまだ"完全に"諦めたりしてないうちは。

だけど、少しずつ私は緩む。
生きることを諦めないという自然な、無意識なことが出来なくなる。たとえば、生活について。
ありがたいことに「可愛い」とか「綺麗」とか「素敵」という褒め言葉に一時的に満たされていることがある。だけど、相手に見えている自分と、私が知っている私はずいぶんちがう。想像より生活の質が悪くて、たいへん。だから、あなたが思っているような女の子では無い。と伝えてあげたくなる気持ちで「ぜんぜんだよ」とか言ってるところがある。
何が言いたいかって、私は1人で泣きじゃくって、涙で湿ったちり紙と共に頬の涙も洗わずに眠る子です。と。精神的にやられてくると、ベッドから1歩も歩けないからお風呂も怖くて入れない。遮光カーテンのある小さな部屋で、朝まで泣いて、昼に眠り、ご飯を食べるのを忘れて、またベッドに横になる感じ。とっても不潔で、一日のほとんどを睡眠に費やしていて、起きてれば涙を流すような生活。ちょっとずつ、目指している健康的な生活になろうとやってるけどさ、なかなか。出来たことを記すノートが自己肯定感と自信を生み出し、大学のスケジュールや友達のおかげで外に出なくてはならないTO DO LISTが生まれて、うれしい。外にいるとき、私はなんの不具合もなく上手く生きているように振る舞えている気がするし、そもそも上手く生きている気分になれる。だから1人で銭湯に行ったり、コンビニに行ったり、大学やバイトに行くのも好きだ。
けど更なる問題もあった。
誰にも言ってなかったことを、ひとりの友達に軽くうつ症状だと打ち明けた。具体的なことは恥ずかしくて言えなかった。
そのひとは友達ではなかったかもしれない。
いつも明るいし外に出かけるし、うつ状態には見えないから、部屋が散らかっているという理由で部屋に呼ばないことや、薬を服用している姿も見せないことすらムカつくらしい。自身の大変さが馬鹿馬鹿しくなるそうだ。私はなんで比べられているのか分からなかったけど、たくさんその人の意見を聞いて、反感を買ってしまったことに謝った。ついでに私の容姿や細かな言動やダイエット、来年20歳になるのにそんなうつ状態じゃだめだということについても指摘されてちょっと悲しすぎて、あとで一人で泣いた。だから手が痺れたの。
強く言いすぎたことを謝られ、これからまた仲良くしたいことと、自分に非があるなら伝えて欲しいと言われたが、「大丈夫だよ」って答えた。(わたしの悪いところかも)
お風呂に入れなくて、温泉に行ったり、家の風呂で爆音で音楽をかけたり入浴剤いれたり、美容室に頼ったりして工夫してるのになーとか思った。(なんて偉いんだ)
悲しかったのは、ぜんぶ。
今も過去も、未来も不安になってしまった。
〜歳まで。という考えや、普通は〜という価値観は大切?
そんなわけないとわかっていても、確認したくなった。
私はわたしのペースで生きる。気づいた新たな凸凹も受け入れて、成長していく。
他人が勝手に説教して来なくていいと思う。それは、私への愛なのかどうか考えた時に、違うと思った。
ぶつかったと自分で気づいた時に、私がアドバイスを貰いにいくのとは違うから。
きっと、相手も私も悪くない気がして、単に合わなかっただけだと最初から悟っていた私は、まるで幼すぎる話し合いと言う名の説教に立ち会っていた。
洗脳されたみたいに震えていたけど。
私への友達理想像を押し付けられていた気もする。そうじゃなくて、どんな相手だとしても相手を受け入れられる心を持ちながら、距離を調節してゆける能力があった方がいい気がした。そしたら、だれも悲しまずに疎遠になったり、幸せなまま距離が近くなり、もやもやを溜めることなく、まだ軽いその瞬間のうちに空気を悪くしないまま伝えられたりするはず。
少しずつ合わないと気づいた時に、1歩引いてみたわたしは、今回上手く逃がして貰えなかったみたいだった。
ほんとうに、よく分からない人だったな、
けど、よく泣いたし、
全然眠れないし、
お風呂に毎日は入れない時が来るのは
変わってないし、
それでもいつか大丈夫になれるといいな。
それでさ、夢を叶えたいな。
他にも友達はいるし、怯える必要はないのに
そうなったり、寂しかったりするよ。
当たり前だよね。
健康だ。
大丈夫じゃないけど、いつか大丈夫になれる自信があるよ。
とても素敵なことでしょ?
私に自信が無いのは、私が誰にも見せない部分を知っているからかもね。
いまは、私の生活や夢のことで精一杯。